' . "\n"; ?> The view from the abyss | :::LitSwD:::

 プールの匂いがした。
 人が創り出した人工の海の、塩素の香りだ。ベッドから身を起こすと、凌牙はそっと仕切りの外を窺う。後ろ髪と前髪の跳ねたシルエットは見覚えのあるものだった。水着にタオルを引っ掛けた姿の彼は、救急箱の中身を漁っていた。ぼんやりと見ていれば、ふと彼は顔を上げて首をかしげた。そして背後を振り返る。
「あ、シャーク!」
「……うるせえ」
「具合悪いのか?」
 大きな瞳を瞬かせると遊馬は眉をひそめる。何でもない、とだけ言うと、ベッドから降りた。一瞬だけ寂しそうな顔をした遊馬だが、凌牙が救急箱を取り上げたのを見て破顔する。いそいそとうれしそうに長椅子に座ると、膝を立ててこちらへ見えるようにしている。肩をすくめて応え、救急箱を遊馬の横に置いた。
「どこで怪我した」
「オレさー、プールサイドで転んじまって」
 膝を見れば確かに、薄く血が滲んでいる。水に混ざって薄くなっているだけで、まだ血は止まっていないようだ。けろっとしているが相当痛いだろう。
「洗ったのか」
「まだ」
 脱脂綿で水を拭き取るとかなり広範囲に渡って切れている。自然と寄った眉根に遊馬が体を固くしたのが分かった。
 彼は、鈍感だ。敗北を知る打たれ強いその心は、同時に寛容さで全てを包み込もうとする。触れたら最後、いつの間にか引き込まれ、暖かい空気に慣れてしまうのだ。透明な水中の世界で生きてきた凌牙にはすこしばかり、痛い。
 そして彼は彼に相応しい明るさを持つ仲間たちがいる。きっと、ストレートに感情をわき出せる、そんな仲間たちが。
「滲みるぞ」
「えっ……ったあああ!」
「プールサイドで走るんじゃねえよ」
「だ、だって」
 自分はそうは成れない。
 彼らのように、遊馬の横に並び立つことはできない。
「終わったぞ……治るまで、こまめに消毒しろ」
「へーい……」
 保健室の部屋を見回す遊馬は、先程凌牙が寝ていたベッドに目を留める。風邪でも体調不良でもなんでもない。ただのサボりだ。そう告げても遊馬は納得していないようだった。
「なあ、シャーク。なんか悩みでもあんの?」
「……さあな」
 二回、瞬きをした遊馬はふと、アルカイックな微笑をその顔に刻んだ。フィリアでもなくエロスでもなく、アガペーの具現であるようなそれは、凌牙の心を救い上げて打ちのめす。与えられない神の恵みは手に入れられない空の戦車のようだ。
 知っているのだ、自分は彼の世界にいても、彼の視界にはいない。気紛れに光を注ぐだけで、常には見てはくれないのだ。
「ありがとな、コレ」
「もう走んじゃねーぞ」
 瞬間、先程の微笑などなかったように飛ぶように立ち上がった遊馬は、一転して歳相応のいたずらっぽい笑顔で手を振って保健室から出て行った。首を振って救急箱を片付ける。
 それでも、打ちのめされたとしてもやはり彼の救いの一片に触れたいと思うのは愚かな願いだろうか。長椅子の、遊馬の膝のあたり。空気に残るメシアの血の香りは、甘く苦かった。



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2011/09/23 : 初出